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2014年3月2日

ビキニ被ばく60年目を迎えて

神奈川県生活協同組合連合会
会長理事 木下 長義

1954年3月1日、中部太平洋のマーシャル諸島・ビキニ環礁で米国の水爆実験(コードネーム:ブラボー・ショット、15メガトン=広島原爆の1,000倍の威力)が行なわれました。核爆発によって破砕されたサンゴ礁は、放射性物質を含む大量の死の灰となって海に降り注ぎました。当時、米国とソ連の核兵器開発競争は激化しており、1952年には米国は世界初の水爆実験を行いましたが、翌年にはソ連がより軽量の新型水爆実験に成功。ソ連に先行された米国は54年3月から5月まで6回の「キャッスル作戦」と名付けた水爆実験を実施。ブラボーはその1発目です。

 死の灰は実験場から100kmも離れた公海上で操業していた静岡・焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」に降り注ぎ、乗組員23人が急性放射線障害となり、無線長の久保山愛吉(40)さんは、手当てのかいなく9月23日に急性白血病で死亡(直接の死因は肝臓障害)されました。

第五福竜丸が獲ってきたマグロから強い放射能が検出され、各地の魚市場では大量の魚が廃棄される事態となりました。寿司屋や魚屋にはお客が寄り付かず「原爆マグロ恐慌」が生じ、東京の中央卸売市場ではコレラの流行以来はじめて取引が停止となりました。

同年3月18日、厚生省は、マーシャル諸島水域で操業、または同水域を航行した漁船を対象に、焼津、三崎など18港で船体と魚の放射能汚染検査を受けるよう通達。同年12月末まで行なわれた延べ856艘の船と魚の検査により、457トンものマグロが土中や海中に投棄されました。中には長崎とビキニで二度被ばく体験をした方もいました。

日本政府は、第五福竜丸事件は「慰謝料」の支払で決着済みという態度を取り続け、被災者への根本的な救援は行われていません。第五福竜丸の船員は「被爆者手帳」は持っていないばかりか、他の被災船船員の救済の道も閉ざされたままです。第五福竜丸以外にも7百数十艘を超える被ばく船と船員の存在を忘れてはなりません。

 

死の灰は気流や海流によって中部太平洋から北太平洋、インド洋まで甚大な汚染を引き起こしました。日本の農畜産物にも大きな影響があり、気象庁は、雨が降る度に、「何カウントの放射能が含まれている」と発表する状況でした。

また太平洋諸島マーシャル地区のアイリングナエ、ロンゲラップ、ウトリック環礁、ロンゲリックの住民は避難させられることなく被ばくしました。子供たちは初めてみる雪のような白い粉を身体にかけて遊んでいました。やがて激しい嘔吐、皮膚の炎症、脱毛などの急性放射能障害が島民を襲いました。住民は奇形児や流産などの異常出産、甲状腺ガンや白血病で次々に斃れ、十分な治療もなされずに核実験の「モルモット」のように、太平洋を流浪させられることになりました。今日でも、さまざまな疾病で苦しめられています。

 

最近、機密指定を解除された米公文書により判明したこととして、第五福竜丸が被ばくした事件を巡り、「死の灰」の成分分析を詳報するなど米国の対応に批判的な日本メディアに米政府が不満を強め、「日米関係全体に深刻な影響を与える」と日本政府に圧力をかけていたことが報道されています。

ビキニ被ばく60年目の今、久保山愛吉さんの「原水爆の被害者は私を最後にして欲しい」との言葉を心に刻み直し、「人類と核は絶対に共存できない」と心に誓います。核兵器は非人道兵器の極みであり「絶対悪」です。

被爆者の願いに応え、2015年NPT再検討会議に向けて核兵器禁止条約の早期実現のために、より多くの皆さまと手を携えながら「核兵器のない世界」を目指すことを決意します。

 

被災60年 3.1ビキニデー集会に寄せられた 三浦市長からのメッセージpdf 別ウインドウ90KB)

 

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